名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。
2018年3月13日公開
第39回「Born to Run〜病的ランニング考」
ピョンチャンオリンピックの盛り上がりの陰で、地味に報じられたのだが、2月25日に行われた東京マラソンで設楽悠太選手が16年ぶりにフルマラソンの日本記録を塗り替えた。 報償金1億円という金額がその偉業を物語っている。
東京マラソン出走者枠35,500人に対して応募者総数30万人以上、フルマラソンの部の抽選倍率12.1倍。観客でなく‘プレイヤー’がこれだけ多数参加する競技は他に類はない。 しかも、東京マラソンの抽選倍率は9年連続で続伸している。 一説によれば、ピークを過ぎたとはいえ、ランニング愛好者人口は700万人とも、800万人とも言われている。
当然、この小欄を目にする方の中にも多くの愛好者がいらっしゃる事だろう。 私の知る限り、広告業に従事する方はランニングの魅力に取りつかれる方が少なくない。 斯くいう自分もその一人である。 そこで、人に自慢出来るような立派な記録も持たぬ一介の市民ランナーに過ぎない私だが、あえてその魅力について語ってみたい。
自由を愛する人のスポーツ
ランニングの魅力は、なんといっても制約の少なさ。自由度である。
大概のスポーツは用具の購入、ルール習得のためのハウツー本の購入、ゴルフ場やテニスコートのような利用施設の予約、果ては技術習得のための各種スクールやジムへの入会を余儀なくされる。
さらに、グループで興ずるスポーツの場合は仲間とのスケジュール調整など、数々の面倒な手間を要する。
日常の煩わしさを忘れ自由な時間を楽しむはずのスポーツが、多くの場合、プレーを楽しむためにわざわざ煩わしい人間関係を新しく構築し、なけなしの自由な時間を費やさなければならない。不幸なことである。
一方、ランニングは、道具と言ってもスニーカーがあれば事足りる。 面倒な競技ルールもなければ、テクニックを学ぶ必要もない。 ましてやスクールの加入、友人とのスケジュール調整も不要なシンプルなスポーツ。 思い立った時に走り出せる。決して社交的でも、積極的でもない内向的志向者にはまさにもってこいのスポーツである。
オタク魂をくすぐるテクノロジー
ランニングは ‘走る’=誰にでもできる単純な動作に過ぎない。 そこで、‘より速く、より遠くへ’進むために、人間は身体を鍛練することに飽きたらず、ランニングに関する多くのテクノロジーを進歩させた。
まず、なんといってもランニングを支えるシューズの進化である。
最近TVドラマで高視聴率を誇った池井戸潤原作の「陸王」は、まさに、ランニングシューズ開発の物語であった。
しかも興味深いのは、日本マラソン界の黎明期において、世界を席巻した日本人ランナーが履いていたシューズはまさに、足袋メーカーが作った ‘マラソン足袋’なるものであった。
1964年開催の東京オリンピックで優勝した「アベベ・ビキラ」は裸足のランナーとして有名だが、裸足で走ったのはその前回のローマ大会であり、東京ではシューズを履いて走っている。
当時のマラソンランナーを悩ませたのはマメ。
ランニングによってマメができる原因は、シューズと足との摩擦熱による‘火傷’。
その摩擦熱を減らすためにシューズの形状や素材が進化した。
シューズの性能を左右する要素はこの足を包む部分‘アッパー’と、地面からの衝撃を吸収し、それを推進力に変える‘ミドルソール’、さらにはグリップ力を高めかつ耐摩耗性を高める‘アウトソール’の 3つの要素にある。
(写真はトレイル用の足袋型シューズ)
近年、特に注目を集めているのが‘ミッドソール’の革新にある。
前述の通り、ミッドソールは衝撃を吸収することで、疲労を押さえ、ケガや痛みの発生を防ぐ。
そのため、ランニング初心者のシューズは厚底のモデルが主流である。
一方、スピードを求める上級ランナーは反発力が強く、軽いシューズを求めるため、衝撃吸収性を犠牲にして薄底のモデルを選ぶ。
この数年、新素材の開発が相次ぎ、これまでの常識を覆すモデルが登場してきた。
薄くて軽いのに、衝撃吸収力と反発力に優れた革新的シューズの登場である。
とあるメーカーからの支援を受ける青山学院大学の箱根駅伝の三連覇は、このハイテクシューズが大いに貢献したに違いない。当然、市民ランナーの多くがこのモデルに飛びついた。
しかし、である。
昨年、箱根の前哨戦である出雲駅伝では青学を破り、東海大学が優勝している。
また、箱根駅伝で往路優勝し、青山学院の完全優勝を阻んだのは古豪・東洋大学。この両校の選手が履いていたのは、これまで入門者モデルといわれているような、まさに厚底シューズだった。
しかも、先日の東京マラソンで日本新記録を打ち立てたのは、この‘厚底シューズ’を履いた設楽選手なのである。
この厚底シューズにはさらにヒミツがある。
これまでのシューズの常識から外れた新しいテクノロジーが投入されている。
はいて走りだした第一歩からその特異性に誰もが驚く。
…本人の意思とは関係なく勝手に足が速く走ってしまう。
アンデルセン童話の「赤い靴」もびっくり。
信じられるだろうか。
(厚底VS薄底シューズ。厚底モデルは設楽選手使用の物と同型)
トレーニングメソッドの進化
オリンピックビジネスの巨大化に伴って、記録の向上は著しいが、記録向上に向けたトレーニングメソッドの進歩は記録向上のスピード以上に目覚ましい。 特にランニング というシンプルなスポーツ、多少のテクニックや駆け引きがあるとしても、そのパフォーマンスは身体的側面が決定的な要素である事は間違いない。 ランニング においては身体能力を極めるためのトレーニング方法の科学的アプローチと、レースで最高のパフォーマンスを発揮するための栄養学や運動生理学による肉体の分析が日々進歩を遂げ、それが一部のプロフェッショナルだけでなく多くの一般的なアマチュアにもフィードバックされるのである。 それも、競技人口800万人ともいわれるマーケットの巨大さによる恩恵であろう。
もともと医療用に開発された、素早く水分が補給できるアイソトニック飲料は、今では当たり前の飲み物であるが、運動機能の維持のために科学的アプローチで改良され、トレーニングに導入された。根性一辺倒のスポーツの世界を一新した製品だった。 以降、スポーツ栄養学の世界は日進月歩の進化を遂げる。
人間が運動するときに消費するエネルギーは身体の筋肉や肝臓などに蓄えられたグリコーゲンである。 同じく身体に貯えられた体脂肪もエネルギーとして活用出来るが、分解するスピードが遅く、ランニング時にはあまり利用されない。 グリコーゲンとして蓄えられる熱量は平均的な成人男子で2500kcal、だいたい30キロぐらいでエネルギーが尽きる。 世にいう「30キロの壁」である。 それを補うために、様々な‘エネルギージェル’が開発されている。 素早く吸収されるのに、血糖値の上昇はゆるやか。 といった、「歌って踊れる静かな店」的な製品をはじめ、最近は脂肪の燃焼スピードをあげる「スズメバチエキス」なるものが配合された、ゲテモノ一歩手前のサプリメントまで、大真面目に開発されているのだ。
(ランナーの‘お守り’エネルギージェル。10g程度で軽くお茶碗一杯の高カロリー)
(スズメバチエキス配合!ズバリ、昆虫の匂いがする)
トレーニングをサポートするウェアラブル・デバイスとインターネットを介してリンクされるトレーニングアプリの進化もスゴイ。 GPS、加速度センサー、高度計など数多くのセンサーに加え、光学式の心拍計まで備えた腕時計から収集したデータをインターネット経由でスマホのアプリにアップロード。 集計・分析し、トレーニングの効果を検証するだけでなく、最新のパーソナルなトレーニングメニューを作成してくれる。 I O Tどころか、今やインターネットにヒトのカラダがつながる時代になったのだ。
(光学式心拍計を装備したランニング用ウォッチ)
「より速く、より遠くへ」
人間が備えるプリミティブな欲求は、ストレス社会、特に広告業界で働く人間を魅了してやまない。 人海に飲まれる日常から逃避して、ひたすら自己の内なる声に耳を傾ける42.195キロの旅は至福の時である。 加えて、マニア心をくすぐる超オタクなスーパーテクノロジーの恩恵を自らの肉体を使って実験できるなんて、なんというエクスペリエンスであろう。
革靴をスニーカーに履き替えて一歩踏み出す。それだけでランニングというめくるめく陶酔の世界に踏み入る事ができるのだ。どうだろう。 一度あなたも、この人外大魔境に落ちてみるのは。
(ランニングアプリの画面。毎日のランニングログはもちろん、達成に応じてパーソナルメニューをアップデートしてくれる)