リレーエッセイ

名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。

2021年2月5日公開
第54回「バンテリンドーム ナゴヤ」

ADKクリエイティブ・ワン加藤英明さんから今回のリレーエッセイを引き継ぎました、原田直人と申します。
前回加藤さんが執筆された、第53回リレーエッセイ「名古屋を元気にする広告」の文中、審査員の説明で(ちなみに1社だけ名古屋支社長自らが参加されています。…) とありますが、恥ずかしながら私の事です、すいません。

簡単な自己紹介をさせていただきます。 愛知県新城市生まれ豊田市育ち、大学卒業後、中部日本放送の制作会社CBCヴィジョン(現CBCクリエイション)に入社し、30歳の時、東急エージェンシーに中途入社。

野球少年だった小学生・高校球児・今現在の私と「バンテリンドーム ナゴヤ」の思い出をお話いたします。

2020年12月10日、ナゴヤドームのネーミングライツを「興和」が取得したと発表した。
会社で番組録画用のTVモニターを見ながら、
「へぇ、バンテリンドーム ナゴヤか。ナゴヤ球場が懐かしいなぁ」
と私は心の中でつぶやいた。
その瞬間、ナゴヤドームの前身、昭和感漂う「ナゴヤ球場」との数々の思い出が頭の中に蘇ってきた。

【初ナゴヤ球場】

ナゴヤ球場へ父に初めて連れて行ってもらったのは、たしか小学4年生の秋頃だったと思う。
小学2年生の頃から上級生に混じってソフトボールをしていた私は、高学年になり、ソフトボール部に入部した。 その後、中学、高校、さらに現在に至るまで、軟式・硬式野球を続けていくとは思ってもいなかった。
1970年代は、TVではなくラジオで中日ドラゴンズの試合中継を聞いていた時代だった。 私専用の青くて小さな丸型のラジオに耳を当て、実況のアナウンサーの声に耳を傾けていた。
「レフトバック、レフトバック、レフトバック!! 取りました!」
実際には平凡なレフトフライを誇張した言い回しで実況していることを、全く知らなかった。

三河の片田舎に住む小学生の私にとってナゴヤ球場へ行くことは非日常で、凄く楽しみだった。
「プロ野球の試合をしている球場ってどんな感じだろう」
最寄りの名鉄三河線の若林駅から知立駅で乗り換え、名鉄本線の金山駅でもう一度乗り換えナゴヤ球場前駅で下車。 初めてナゴヤ球場へ向かった。 夕暮れ時の駅は、大人の男達でごった返していて、140cmくらいの私は男達の背中しか見えなかった。
確か、中日ドラゴンズと大洋ホエールズのナイターの試合だった。

駅前や球場に向かう歩道の照明は少なく暗かった。
その頃はそんな言葉は知らなかったが、場末感が半端なかった気がする。(今でもちょっとそんな感じ)
ナゴヤ球場へ近づいた私たちに、
「はいはい、券あるよ! 券あるよ! はいはい、券買うよ! 券買うよ!」
と、迫力のある濁声で忙しく体を揺らして異彩を放つ男達が10メートル間隔で声を掛けてくる。
「見ちゃだめだから」
父が素早く私の耳元でささやき、私の手を強く握りしめ足早になった。

ダフ屋の男達だ。昨今、路上で立ってチケットの売買をするダフ屋は居なくなったが、その時の私には彼らがどんなことをしているか全く理解できなかった。
「券がある?? 券を買う??」
駅からナゴヤ球場へ向かう途中の空気感は、独特の場末感と特殊なキャストが放つ喧騒感に満ちて、とにかく私は怖かった。 怖くて父の体にへばり付いて歩いた。 10分ほど歩き、ナゴヤ球場に到着した。
「コンクリートの壁、でっかいなぁ」
ナゴヤ球場を初めて見た私の視覚的な印象だった。
それまでに見た建造物の中で一番外壁が高く3万人以上の観客を収容できる野球場外観の雰囲気は、子供の私にとって威圧感たっぷりだった。

球場入り口に向かう階段は大きく広く、ここでも多くの観客がごった返し、大人の背中しか見えない状態だった。 父に手を引かれ、一塁側内野席入り口で係員にチケットをもぎられ、観客席に向かう階段を20段ほど上がった時、今まで見たことがない光景が目に飛び込んできた。
「うわっ、めちゃくちゃきれい!何これ、グランドがキラキラしている!」
言葉には出さなかったが、球場にあるおびただしい数のナイター照明がグランドに向かって突き刺さり、いくつも光の束でグランドを浮き立たせていた。 守備練習していた選手の動きも照明に当たり際立った輪郭で尋常でない迫力を醸し出していた。
「すっげぇなぁ、ナゴヤ球場。すげぇや!」
40年以上経った今でも脳裏から離れず、ずっと鮮明のままである。 大袈裟かもしれないが、私が今までに見た光景の中でのインパクトは1番だと思う。 自分が子供だったからかもしれないが、生涯忘れることが出来ない光景となった。

ナゴヤ球場に限らず、他の球場でもナイター照明によるグランドの光景を凄くきれいだと記憶している方も大勢いるだろう。 子供の頃に見た光景は、実際よりも大きいスケールで記憶に閉じ込められていることが多い。 小学校の体育館を何十年ぶりに覗いてみるとこんなに小さかったかな、と思うのと同じように。

このグランドの光景があまりにも強烈で鮮烈だったのか、私が覚えている記憶はここまで。 試合に出場した選手の活躍や試合結果などは全く覚えていない。 本当にきれいさっぱり覚えていない。
覚えている事は試合が終了すると、球場で売っている焼きそばが半額になるという事と、駅への帰り道が来た時よりも暗くなり、更に場末感が強くなっていた事だけである。


ナゴヤ球場

現在のナゴヤ球場

【愛知県高校野球の聖地だったナゴヤ球場】

全国の高校野球の聖地といえば「甲子園」。
愛知県における高校野球の聖地と言えば、春の選抜高等学校野球大会地区予選決勝、夏の全国高等学校野球選手権大会地区予選決勝が行われる「熱田球場」や「岡崎球場」を愛知県の高校球児は想像するかもしれない。 だが私のような1980年世代にとっては、愛知県高校野球の聖地は紛れもなく「ナゴヤ球場」であった。

私は「松坂世代」や「マー君世代」ではなく、「KKコンビ世代」にあたる。
「KKコンビ」と同学年世代だったので、まさに「KKコンビ」と共に歩んだ3年間だった。
桑田、清原を中心に、高校1年の夏の大会から高校3年の夏の大会まで5季連続春夏甲子園大会に出場したPL学園は、高校球児の憧れであり、目標は打倒PL学園だった。
甲子園で優勝2回、準優勝2回。 勝利するたびに流れるPL学園校歌のメロディーと歌詞は、否応なく私のようなポンコツ頭にも刷り込まれたほどであった。
「ああ〜、PL〜PL〜、永遠の学園〜 永遠の学園」
「KKコンビ世代」の高校球児なら、きっと口ずさめるはずである。間違いない。

当時の愛知県は、甲子園出場予選にあたる夏の選手権大会と春の選抜、この2つの大会の準決勝と決勝が、プロ野球中日ドラゴンズの本拠地であった「ナゴヤ球場」で開催されていた。そのため、目指すはベスト4であった。
ベスト4に入るには、愛知私学4強、中京・東邦・名電・享栄の一角を倒すことが絶対条件である。 我らの高校がこの4強に公式戦でこれまでに勝ったことがあるのは、春の選抜大会で甲子園に出場した6歳上の先輩チームと、その翌年、5歳上の先輩チームだけである。

ここまでは何となく自分の高校球児としての記憶や目標を勇ましく書かせてもらったが、実際の私たちのチームの実績は、高校3年生の春の選抜予選でベスト16、夏の選手権予選ではベスト32だった。
中途半端な結果である。それぞれの大会でもう一つ二つ勝っていたら…。とたらればの悔恨。
甲子園を目指すことは途方もなく困難な道のりであることを実感した3年間だった。
ただ、同じチームメイトからは、
「お前、そんなに野球を一生懸命やってたっけ??」
と言われるのは間違いない。しかし、高校3年間同じチームメイトだった同級生19人は間違いなく私の人生の宝物である。ありがとう。

私たちの高校は、野球部よりもサッカー部の方が強かった。 おそらく今でも全国サッカー選手権大会(新年早々やっている全国大会)で、愛知県代表となった回数は一番多いかもしれない。
全校集会で校長先生が学校の連絡事項や近況を伝えた後、淡々と報告していた。
「今度の日曜日、サッカー部が準決勝です。応援に行って下さい。以上で全校集会終わります」
私は頭の中で、
「えっ、準決勝ってベスト4じゃん!あと2つ勝つと全国じゃん! 何をさらっと校長は言っているんだ? 野球部だったらお祭り騒ぎなのに、何でサッカー部は当たり前な顔をしてるんだ?」
当時の野球部とサッカー部の実力と目標が違うことを実感した瞬間だった。
悔しかったが仕方ない。彼らの練習量は半端なかった。 そして、最初から彼らは全国大会出場が目標だったのだ。 チームも個人も。

高校2年生の時、サッカー部が全国サッカー選手権大会に愛知代表で出場することになった。
東京の西が丘サッカー場で試合があるので、野球部は練習を休みとされ応援に駆り出された。
(すいません、35年前以上の記憶なのでサッカー部を妬む被害妄想の記憶の可能性有りです)
私たちが乗っていた応援バスが、試合会場への到着が遅れ、得点シーンは見ることが出来なかったが、1-0で徳島商業に勝ったことを覚えている。次の二回戦、私はテレビ観戦だった。
前橋商業と1-1でPK戦になって、6人目まで決まらず、7人目に決められてPK負けだった。
よくよく考えると、全国サッカー選手権大会は野球で言えば「甲子園」にあたる大会で、その大会に出場して1勝しているサッカー部は凄い。 しかも、もう少しで2勝目だった。
だが、サッカー部は常に野球部の目の上のたんこぶだったので(野球部員だけが思っていたことだが)、当時の同じクラスメイトのサッカー部員に、凄いなとは一言も話していない気がする。
仕方ない、私は人間が小さいので。

更に私の被害妄想かもしれないが、高校時代、体育の授業で夏の水泳以外は、天気が良いとサッカーばかりしていた気がする。 冬場も陸上競技や他球技をした記憶がなく、常にサッカーをしていた。 体育館でバレーやバスケットをやれば良いものを。
あれはきっと体育の授業をサッカー部の練習のために使っていたのだろう。 確か体育の先生はサッカー部の顧問だったと思う。 あの体育の時間はサッカー部の練習だったな、きっと。だから全国大会に出場できたんだ。間違いない。


高校球児の原田

刈谷球場の応援風景

【42年会親善野球】

話が逸れたので野球に話を戻すと、愛知県高校野球の私学4強を倒さないとベスト4には行き着かず、聖地「ナゴヤ球場」で試合ができないという話には、後日談がある。

同じ年齢の名古屋出身東邦高校野球部キャプテンMが、東急エージェンシー本社にいたことがきっかけである。 本社と名古屋支社で接点は無かったが、Mが名古屋にある実家の家業を継ぐことになり、東急エージェンシーを辞めて、名古屋支社の私のところへ立ち寄り、付き合いが始まった。 当然、高校時代の野球話になり、私が全く経験できなかった甲子園出場の話を楽しく聞かせてもらった。
当時の東邦は高校3年の春の選抜、夏の選手権と続けて出場した強豪中の強豪だった。 逆転の試合が多く、サヨナラ勝ちで夏の選手権大会で優勝した時は圧巻だった。
本当に凄かったと思ってはいたが、同じ会社の同輩だった経緯もあり、簡単に褒めたくなくて、
「やっぱり、東邦の坂口監督って凄いよな。指導力とか選手起用とか」
と、器の小さい言葉しか出てこなかった。本当にごめん。

ある日、昭和42年生まれの東邦・中京・名電・享栄・大府の野球部OB集めて年1回試合して遊んでいる。 という話を聞いた。野球強豪校ばかりで迫力あって面白そうだな、と思ったので、
うちの高校も参加していいか尋ねたところ(ここは参加したいという気持ちを素直に話せた自分を褒めたい!)、一度、会長のO(中京高校キャプテン)に聞いてみると言ってくれた。

1か月後に連絡があり、私の高校は参加を認められた。同じタイミングで愛知高校も参加することが決まり、7校参加の親善試合となった。翌年からはさらに名古屋学院も加わり8校となった。

瑞穂球場での親善試合はそれぞれの高校が当時着ていたユニフォームのレプリカでの参加だった。
「まじかよ、私学4強のユニフォームが揃ってるじゃん、目の前に」
高校卒業して30年後だったので怖くは無かったが、当時、この4校が集まっていたとしたら、どうなっていたことやら想像がつかない。
OやMの話によると、この4強は手の内を知られたくないので、他県の強豪としか練習試合をやらなかったそうだ。対戦するのは公式戦の時だけとのこと。
私の各校の当時の印象は、

【中京】ユニフォームが詰襟で格好良かったが、怖かった。バッターでストライクを見逃すと三塁手が近寄って来て、「ストライクだぞ、打てや!」と怒鳴って三塁守備位置に戻る。
【東邦】4強の中では、野球に一生懸命取り組むチームの印象。Mには伝えたことは無いが。
【享栄】私が高校一年生の時、練習試合で4番藤王さんのホームランを見たときは驚愕だった。打った瞬間に打球はライトの頭上にあったことを覚えている。凄すぎる。
【名電】唯一、高校三年間対戦したことが無いが、紫色のユニフォームが印象的。ユニフォームのパンツをボンタン風に変形させている選手が多かった。

親善試合に集まって来た選手も、元プロ野球選手、元プロ野球球団のスコアラーやスカウト、高校野球の監督、小中学校教員、一般公務員、一部上場企業、飲食店や自営業など様々な職業に就いてバラエティーに富んでおり、試合だけでなくその後の懇親会も大変盛り上がり楽しかった。 個人的に付き合うようになった私学4強部員ができたことは、私の財産である。
親善試合の結果は、各校2チームとの対戦で、私たちの高校は参加3年目に見事優勝。中京や名電から勝利した。高校時代にはありえなかった偉業に、チームメイトは大喜びで、高校時代の溜飲をようやく下げることができた。 たとえ少し衰えた私学4強の選手たちとの対戦だったとしても。

今年はコロナの影響もあり、8校参加の42年会親善試合大会は中止となったが、来年こそは、また実施したい。 この大会に参加した2年目、なんと「ナゴヤドーム」で大会を開催した。 当日は台風が来て、大雨、暴風雨に見舞われたが、中止することなく開催することができた。 初ドームでの試合は、それはそれはとても楽しく興奮した。

次の42年会の目標は、2025年迄に親善試合を「甲子園」で開催すること。
最後はやっぱり高校野球の聖地「甲子園」だよな、と42年会参加者の思いは同じである。
「甲子園で試合をやるぞー!」


各校の42年会役員

タイトル「バンテリンドーム ナゴヤ」から、乱筆乱文にお付き合い頂いた皆様、ありがとうございました。 コロナが早く収まることを願っています。また、皆様とお会いできる日を楽しみにしています。

【著者紹介】

株式会社 東急エージェンシー
名古屋支社長

原田 直人(はらだ なおひと)