名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。
株式会社大広名古屋支社長の西村匡さんのご指名で、僭越ですが、拙文をアップさせていただきます。
私が子どものころ、母の実家が名古屋市東区新出来町にありました。
東海中学と徳源寺の間の狭い露地に沿った長屋の家で、祖父は輸出用磁器の絵付けを生業にしておりました。
祖父は南向きの縁側に面した6畳間に座り込み、顔料をガラス板の上で延ばして絵の具をこしらえ、脇に積み重ねられた椀や小皿をひとつずつ手に取っては、絵筆で同じ絵柄を繰り返し描いていく。
天気が良ければガラス戸を開け放して、庭の植木を通して吹くそよ風を感じながら、ゆっくりと仕事の時間が流れていく。
祖父の家に遊びに行くたびに、そういう光景を目にしてきました。
祖父は現在の岐阜県海津市の生まれで、小学校を卒業してすぐ名古屋に奉公に出ました。
絵付けの修業をした後、自分の工房をもち、人を雇って仕事をしていた時代もあったようですが、戦争ですべてを失い、戦後は祖母と二人で仕事を続けておりました。
私が行くと、仕事場の脇に私を座らせて、最近見た大河ドラマの主人公の話とか、近くの徳川園にある「蓬左文庫」に行ってきたとか、いろいろ話をしてくれました。
中学に行けず勉学の機会が少なかったのを残念がってか、老いても向学心旺盛で、ものしりの人だったように思います。
私の就職が決まったとき、「電通というのは日本電報通信社のことか?」と聞かれて驚いた記憶があります。
部屋の隅には尺八が置いてありましたので、趣味人でもあったのでしょう。
私の生まれは稲沢市で、中学まで地元の公立学校に通うかたわら、小学生のころから、いろいろと習い事をやらせてもらいました。
小学1年で習字とピアノを始め、3年からは珠算教室にも通いました。
もちろん自発的ではなく両親がやらせたのですが、同級の友だちの多くも習字や珠算に通っていました。
子に習い事をさせるというのは、庶民の間でもごく普通のことだったように思います。
中学入学時には名古屋の布池教会の英語教室に行き始めましたが、こちらはひと月でやめました。
先生から「この教室では、君はMikeというニックネームにする」と決められて、それがいやだったのが大きな理由です。
習字には小学生の6年間、週に2日のペースで通いました。 教室は、JR稲沢駅に近い萬徳寺という古刹の脇にある茅葺屋根の民家でした。 萬徳寺は、奈良時代の創建と伝えられる真言宗のお寺で、大相撲名古屋場所の期間中は、東関部屋が宿舎を構えています。
板張りの床の広間に長机をいくつも並べて、十数人の子どもが書写をし、先生が回っては朱筆を入れていく。 そういう教室でした。 江戸時代の寺子屋というのは、そのような風情だったのでしょうね。
愛知県ゆかりの人として、平安時代に小野道風(おののとうふう)という書家がいました。
道風は春日井に住んでいたといわれる貴族で、後に「三蹟」のひとりに数えられる書の名人です。
この人は能書家を志したものの、若いころはなかなか上達せずスランプに悩んでいました。
そんなある時に、道端の柳の枝に蛙が何度も飛びつこうとして失敗を繰り返す様子を目にします。
無理だと思いながら見ていると、蛙がついに柳に飛びつくことに成功する。
それを教訓にしてがんばった結果、やがて名人といわれるようになった。
そんな逸話が今に伝えられています。
柳に飛びつく蛙と道風の様子は、花札の「11月、柳」のデザインにも描かれていますし、「柳に蛙」は青柳総本家さんのトレードマークとして有名です。
私の書の才能は小学校低学年のころがピークだったようで、いくつかの書道コンクールに応募して、賞をもらったこともありました。 小野道風の名にちなんだ「道風展」というコンクールは現在も続いている有名な書道展で、習字に通う愛知県の子供たちの目標だったように思います。
先日、春日井市の幹部の方にお会いする機会があり、いただいた名刺には、春日井市のマスコット「道風(とうふう)くん」が描かれておりました。 筆を持った文芸キャラです。 「書のまち春日井」を市民の皆さんが誇りにされていることがよくわかります。
最近、毛筆で文字を書く機会はめっきり減ってしまいましたが、私は書くことが今でも好きで、手紙を差し上げる時、ワープロではなく万年筆の手書きにすることもよくあります。
私の母校の旭丘高校に近い名古屋の矢田に、三光堂という老舗の文具店がありますが、三光堂では数年前から、万年筆用のオリジナルインク「名古屋シリーズ」を企画して販売されています。
名古屋の名所とその場所にちなんだ色を組合せたネーミングのインクシリーズで、「名古屋城セピア」「熱田の森グリーン」「名古屋港ブルー」など、全15種類。私は「白壁グレー」を愛用しています。
この「名古屋シリーズ」は、店主のお嬢さんのアイディアで、大分や神戸のご当地インクの実績があるセーラー万年筆のインクブレンダーの方と一緒に開発されたのだそうです。文具のご当地品があるということは、その土地の人たちの文化や文芸についての嗜みの深さを示しているようで、なんだか誇らしいですね。
セーラー万年筆にはペン先を研いで調整する「ペン職人」というプロもいるそうで、7月に松坂屋名古屋店で開催される「ペンクリニック」には、インクブレンダーの石丸さんとペン職人の長原さんが来訪されます。地元の万年筆ファンできっと賑わうことでしょう。
さて、祖父がときどき足を運んでいた「蓬左文庫」には「源氏物語写本」や「続日本紀」をはじめとする「駿河御譲本」3千冊などが所蔵されています。
徳川家康が駿府城内に所蔵していた多数の古典籍が、家康死去後、その子息である尾張徳川家初代藩主の義直たちに分譲されましたが、それらの本を「駿河御譲本」というのだそうです。
「蓬左」は名古屋の別称で、「中国の伝説に登場する蓬莱島は熱田神宮のことであり、名古屋はその蓬莱島の左方(南に向かって左手側)に位置する」ことから名がついたといわれています。 ネーミングのセンスも知的ですね。
私のふるさと愛知、名古屋は、身びいきかもしれませんが、歴史的に為政者も庶民も、学問、文芸、技能を重んじる意識が高い土地柄のように思います。
このエッセイを書くにあたって、少年時代の思い出の場所を再びたどってみて、そんなことを感じました。
でも、親は子に「読み書きそろばん」を身につけさせるべきだ、という思いは、日本のどこでも共通なのでしょうね。それが今日の成熟した日本社会の基盤になっているように思います。
ふるさとの風土の中で、私自身、ひと通りの「読み書きそろばん」を学ばせてもらったことを、今になってありがたく思い出している次第です。
現代の「読み書きそろばん」のツールは、タブレットとネットに置き換えられようとしていますが、「読み書きそろばん」の心はこれからも変わってほしくないですね。
では、次のエッセイストの指名準備にとりかかることにいたします。