名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。
株式会社電通中部支社長の谷尚樹さんから同郷、同姓の繋がりでご指名を頂きました新東通信の谷でございます。
今回は、私の信条でもあり、会社の企業理念にも掲げています「何か おもろいことないか」について綴らせていただきます。
私は、兵庫県川西市生まれで高校卒業まで過ごしました。 関西人特有の常に「面白いこと=おもろいこと」を求めて今日まで生きてまいりました。 若い頃には、コント作家を目指して東京で修業したこともありました。 広告業界に飛び込んだのもそんな思いからだったと思います。
そんな私が、先般(平成27年6月)、東京で行われた一般社団法人日本フライングディスク協会の創立40周年記念祝賀会の席上、同協会の師岡会長より特別功労賞を頂き、大変、感慨深いものがありました。
思い起こせば40年前、会社を創業して3年目の従業員わずか十数名の新東通信に、日本に初上陸した「フリスビー」(この名称は現在、ワーム・オー社の登録商標になっています)の輸入元の若き経営者から、日本では全く無名のフリスビーを全国に売り込みたいとの相談が持ち込まれ、私は身の丈をはるかに超える一大PRキャンペーンを敢行しました。
アドマンとしては夢のある楽しい仕事であり、経営者としてはほろ苦い経験をした仕事でもありました。
私は先にも申し上げましたが、20代の頃に東京で仕事しながらコント・放送作家の見習い生活をしておりましたので、マスコミ・放送業界の方々に知人も多く、その人脈を活かして「笑点」、「紅白歌のベストテン」、「夜のヒットスタジオ」、「モーニングショー」をはじめ数多くの全国ネット番組のディレクターを口説き落とし、フリスビーを紹介していただく大々的なパブリシティー戦略を展開しました。
中でも、テレビ朝日の前身であるNETで日曜日に全国放送されていた「せんだみつおのジョイジョイスタジオ」の番組内に「ガッツフリスビー」という10分間のレギュラーコーナーを設けていただき、全国から募った一般参加者によって、フリスビーを使って私が考案した競技で戦ってもらうというものでした。
自らもフリスビー評論家として1年間レギュラー出演させて頂きました。
また、普及活動の一環として、本場アメリカからフリスビーのプロプレーヤーを招聘して全国でデモンストレーションを行い、老若男女に親しんでいただけるレジャーとして、更には、本格的なスポーツ競技としても普及に取り組みました。
フリスビーのテーマソング「曲名/ガッツ フリスビー」の作詞も自ら手掛け、「仮面ライダー」の主題歌でも著名な菊池俊輔さんに作曲を、昭和51年に「およげ、たいやきくん」で457万枚の空前の大ヒットを飛ばした子門真人さんに歌って頂き、満を持してレコードを発売しました。 しかし、昭和52年の発売直後にフリスビーの輸入元であるクライアントの倒産により倉庫で在庫の山となった幻のヒットソングとなりました。
子供から大人まで一大センセーションを巻き起こしたフリスビーは、わずか一年余りで飛躍的に日本中に浸透しました。 その頃、日本フリスビー協会が設立され、全日本学生選手権も開催されるなどスポーツとしても定着し、フリスビー普及キャンペーンは大成功を収めましたが、クライアントの倒産によりビジネスとしては多額の負債を被る辛い結果ともなりました。
私は、広告会社として世界初の中国ロケを敢行してのCM制作、名古屋の街中を市民が走る名古屋シティマラソンを企画・実施、スペイン・カタルーニャ地方の文化・習慣である「サン・ジョルディの日」(毎年4月23日に男女が本と花を贈りあう日)を日本に文化輸入しての普及活動など、ひたすらアドマンとして職人的に広告業界で53年間頑張ってまいりました。
昨今は、新しい名古屋文化・習慣の創造と普及を目指して名古屋独自の手締め「名古屋ナモ締め本舗」なる活動に現を抜かしておりますが、これも生来のプロのアドマンとしての血が騒ぐのであります。
これからも経営者としてではなく、アドマンとして「何か おもろいことないか」を求めて、挑戦し続けていきたいと思います。
今回は、エッセイというよりは私の回顧録のようになってしまいましたが、最後までお付き合いただき有り難うございました。