名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。
今年1月6日に亡くなられた星野仙一さんとの30年以上前の出来事です。
中日ドラゴンズを退団され、NHKの「サンデースポーツスペシャル」の初代キャスターになられた時、私が当時担当していた名古屋の某スポンサーから「今契約しているイメージキャラクターを変えたい」との話がありました。
これは星野さんが適任だと思いスポンサーと金額の交渉に行ったところ、予想外に低い金額を提示され、本人に打診するかどうか正直迷いました。
思い切って東京の星野さんへ連絡をしたところ、案の定すごい剣幕で「明日、名古屋へ帰るから自宅へ来い!!」と言われてしまいました。
翌日、恐る恐る自宅へ面会に行き、応接間に通されると星野さんが短パンとTシャツ姿で現れ、開口一番「俺は三流ではないぞ!!」と激怒され、これは大変なことになったと思いました。
ただ、スポンサーは斜陽の業種の中で頑張っておられ、社長以下全社員が星野さんとの契約を楽しみにしており、これを期に大きく羽ばたいて、もっと成長できる会社にしたいと強く思っていることを誠心誠意伝えました。
しかし、残念ながら思いは届かず「その提示額では俺のプライドが許さない!!」と言われてしまいました。
仕方なくその場は「分かりました。もう一度スポンサーと交渉してきますので10日間ください」とお伝えし、会社に戻ることにしました。
会社に戻ると、社長を始め、周りからも「その金額とウチのような小さな代理店では無理だから諦めろ」と言われ、すごく落ち込みました。
しかし、なかなか諦めることができず、この際当たって砕けろでやれるところまでやってみようと決心し、再度スポンサーに契約金の増額をお願いしましたが、やはり大幅なアップは難しいと言われてしまいました。
後日、前回より少し増額した契約書を持って星野さん宅を再び訪問することになりました。契約書を見るなりまた怖い顔になったのでヒヤヒヤしていると「なんだこれは!!」と怒鳴られてしまいました。
しかし、命まで取られるわけではない、土下座でもなんでもしてやる!と腹を決めると、しばらく2人は口を開かず緊迫した空気が漂いました。
実際は数分のことだったと思いますが、緊張のあまり何時間も経ったような感覚でした。
すると、その場に今は亡き奥様がふと現れ、2人を眺めてから一言「服部さんがこれだけ頑張ってくれているんだから何とかしてあげたら?」と星野さんに言われたのです。
しかし、星野さんは当然すぐに納得いくはずもなく、じっと考え込んでしまいました。5分は経ったでしょうか。
突然、星野さんは契約書を奥様の方に投げると「ハンコを押したれ!」と言い、それを聞いた私は全身の力が抜けてその場に座り込んでしまいました。
無事契約が決まると、スポンサーから星野さんへ毎年相当数のスーツを提供したいとの申し出があり、それは30年以上も続けられました。
この契約をきっかけにスポンサーと星野さんは長い間公私ともに、心のふれあう深いお付き合いをされたのです。
話は変わり、昨年10月末のことですが、ある会社の創業70周年記念パーティーで、1年半ぶりに星野さんとお会いする機会がありました。 席に挨拶に行くと、私を見てにっこり微笑まれました。「お体はどうですか?」と尋ねると「いいことないわ!」と相変わらずな返事でしたが、少しの間2人で談笑することができました。 別れ際「元気でやれよ!みんなに星野が宜しく言っていたと伝えておいてくれ!」と言われ、手を差し伸べられ握手を交わしましたが、まさかこれが最後のお別れになるとは、その時は思いも寄りませんでした。
私の信条は です。
先に書いた30年以上前の星野さんとの話は、人と人とを繋ぐことのできた一番の思い出であり、今でもあの時の契約シーンがつい昨日のことのように蘇ってきます。
星野さんとの出会いがなければ、今の私は無いと言っていいほどの大きな出来事で、当時あんなに辛くて苦しかったのが、今となっては感謝の気持ちでいっぱいです。