名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。
2015年4月からの名古屋支社勤務は、はや6年半となりました。
1987年に㈱日本経済広告社に新卒入社以来、28年間ずっと本社勤務でしたので初めての支社勤務でした。また1963年に生を受けてから住まいもずっと埼玉県東松山市で変わらなかったため、他の土地に住むのも初めてで、単身赴任の一人暮らしもはじめてで、私といたしましては52歳にして生活環境が激変しました。
そして名古屋勤務スタート。まずは関係各社に挨拶に行くのですが、皆が名古屋に対して自虐的。「名古屋の夏は暑くて、冬は寒くて過ごしづらい」とか「名古屋の飯は味が濃くて、魚は旨くない」とか「名古屋は保守的」などと。プロ野球の贔屓球団の話になってもやはり同様、されど私がその自虐に賛同などすると、どうやら愉快でないようで。そんなわけで私の最初の名古屋人への印象は奥ゆかしいが誇り高い頑固者。
「名古屋人は最初全般的に排他的ですが、時間と共にいざ心を許すと、とっても世話好き。だから2.3年ではなく長く名古屋にいないと、名古屋でのビジネスを含めた本当の人脈は構築できません」多くは年配の方に言われました。今の主流の方々の感性はまた違っているとは思いますが、私の心に強く刻まれたフレーズです。
確かに1年目2年目にビジネスを通じて、新規活動が東京に比べて厳しいと感じました。既存の広告会社との絆が強いため、なかなか懐に入れないのです。そしていつもどこか品定めをされているような排他的な視線を感じ、そもそも本気で向き合う気がないと痛感していました。またプライベートでも会社の同僚以外は仲間ができず、退屈な休日をいつも過ごしていました。
されど初めての一人暮らしは気楽で快適で、早く東京に戻りたいという気持ちにはならないまま、時は流れていきました。そして3年が過ぎた頃からでしょうか、徐々に名古屋の方々との距離が縮まってきていることを感じ始めました。
行きつけのお店がいくつかできたり、飲み友達が増えてきたり、そして何より一番はお取引先の方々が「まだいるんだね」と信頼顔で嬉しそうに話しかけてくれるのです。また方々から会食やゴルフのお誘いも増え、退屈な休日がほぼなくなるほどとなり、実家に帰る回数が激減し、これは将来的には不安な行動ですが「まあ よしとするか」と。名古屋の歴史や地理についてもだいぶ詳しくなり、あたかも名古屋人の如く地元の旧友たちに名古屋の様々な魅力を自慢するようになっておりました。
話は少し変わりますが、赴任した夏に大変驚いた一つに「くま蝉の鳴き声」。関東ではその鳴き声は聞きません。名古屋では朝の6時くらいから、そのけたたましい合唱がはじまります。まあその合唱のボリュームたるやMAXで、蝉の声がうるさくて目覚めるのも初めての経験です。されどこれもまた不思議なもので、慣れてくるとこのけたたましい合唱も夏の風物詩となり、なんだか愛おしくなり、7回目の今年の夏の終わり、計ったように彼らの合唱が終焉して道端に亡骸が目立つようになったころ、来年の夏も名古屋に居られるのかな、また彼らの合唱を聴くことができるのかな、などとセンチメンタルになってしまったものです。会社勤めの我々にとって、転勤については「まな板の上の鯉」ですから。
今、7回目の晩秋を向かえています。住めば都といいますが、名古屋が大好きになりました。日の入りが早くなった今日この頃、心が寂しくなるものですが、もっと名古屋に居て、これからもたくさんの方々の優しさに触れながら過ごしたいという思いがこの寂しさを増長させているのでしょうね。名古屋での一日一日がとても尊いと感じ、時間の経過の速さを切なく感じ、名古屋に住んで、名古屋で働いて、名古屋でたくさんの方々に出会えて本当に良かったと日々感謝の思いで一杯です。
とりとめのないことを思うままに乱筆いたしました。そして思いました。どうやらこの文章は「名古屋への切ないラブレター」のようです。