名古屋広告業協会

名古屋広告業協会会員によるリレーエッセイです。

2017年11月22日公開
第37回「30年読書録をつけています。」

30年読書録をつけています。

入社3〜4年目くらいだったか。 これからはパソコンの時代だ、と勝手に決めつけローンを組んで当時人気だったPC-98を購入。 その時にパソコンに常に触れるように、という思いから「読書録」をつけ始めたんですね。 表計算ソフトで自分オリジナルのファイルを作り本を読み終わると記入しています。

1ファイルはこんな感じ。あらすじと感想、評価も記入します。評価は「AAA〜E」までの7段階。

気づいてみると32年くらいつけ続けていました。 その間記入した本の数は「1848冊」。 1年平均約58冊、月平均約5冊ということになります。 この数多いのか少ないのかわからないけど…。 ちなみにA以上の評価をつけたのは784冊ありました。 自分のお金で買って読んでいるので、評価は甘くなっているかも。

ボタン一つで一覧表にも変わります。途中からMacに変わったので,苦労してファイル変換して今に至ります。

ら抜き言葉殺人事件

読んできた本の中から印象に残った「コトバ」について書きたいと思います。 「ら抜き言葉殺人事件」は僕が1991年10月に読んだ島田荘司さんのミステリー。 ら抜き言葉を異常に嫌う日本語教師が殺されることから始まるお話です。 「食べられる」を「食べれる」と省略して使うことを「ら抜き言葉」と呼び、90年ころは結構問題視されてました。 文法的に間違いの若者言葉として嫌われていましたよね。 僕もコピーライターの端くれとして、これには気を使った覚えがあります。 それから26年の現在、ら抜き言葉がいかに定着したことか。 ネットでも普通の会話でも「これ食べれる?」が当たり前で「このキノコ食べられる?」という人は僕くらいしかいないのではないか、と思ってしまうほどです。 僕は未だに「ら抜き言葉を使わない派」です(笑)その後「コトバは自殺しない」という表現と出会いました。 いつの時代でも言葉を変えていくのは人間、コトバは人間に殺される。 という趣旨の表現です。 まさにら抜き言葉がこれですね。 「見られる」「出られる」が日々殺されていくなんて「考えられない」岡本です。

瞑想するような山羊の顔つき

山羊の顔って、あのどこを見ているかわからない「眼」のせいだと思うのだけど、ずっと「間抜けな顔」って思ってました。 牧場でメ〜と鳴きながら、餌をねだりに来る姿は可愛いというより滑稽に見えていました。 でもこれが表現の名手、阿刀田高さんの手にかかると、途端に崇高なものになる。 岡本にとっての間抜けは阿刀田さんにとっては哲学者のような知恵深い存在に変わるのです。 表現って凄いな。


「震災以降、生き残った人間には、みんな加害者意識がある」

いとうせいこう氏の「想像ラジオ」から。 震災が起こっても、ボランティアにも駆け付けなかった自分、遠く離れたところから見守るだけ。 そしていつのまにか心の中にできていた「もやもや」。 これってなんだろうとずっと思ってたんだけど、「加害者意識」だったんだな。 読んでいない方のためにあえて解説はしないけど、大変印象に残った一文でした。 そう言えば私事で恐縮ですが昨年父を亡くしたとき、慌てて実家に駆けつけた僕に、残された母が「私があの時ああしていたら、あの人は死んでなかった」とボソリと言ったのです。 「あ、ここにも加害者意識が」。 僕は、母に「残された人はみんな自分のせいで人が死んだと言うけど、そんなことは絶対ありえない。 そんな考えは捨てなさい」と伝えました。 優しい人ほどきっとそういう考えにとらわれるんだろうな。

「人間がそこにあるか」
「日本語をどれだけ深く使えるか」、
「どれだけボキャブラリーをもっているか」、
「語彙の素晴らしさをどの様に生かすか」

この言葉は千葉県で活躍されていたある川柳家の言葉。 サラリーマン川柳ではなく正統派の川柳を継承し続けてきた方です。 基本動作というか、結果のゴールというか、いい川柳といい広告コピーは似ているな…、とつくづく思ったものでした。
また、川柳には「見つけ」という言葉があって、これがうまい人はいい句をつくる、ともおっしゃっていました。 川柳はある「題」が出されて、それにまつわる作品をみんなで持ち寄るのだそうですがその「題」を解釈し、どういうことを表現するか、が腕の見せ所らしく、題から連想ゲームをしながら、付かず離れずの距離を探り結果的に自分が描きたいと思った「情景とか心情」のことを「見つけ」というのだそうです。

例えば「こたつ」というお題に対し、「家族」「だんらん」「蜜柑」など他人が思いつきそうなことを詠んでいるのではまだ初心者。 「こたつ」→猫ではなく、→庭で凍えている飼い犬に目を向けるとか蜜柑ではなく、季節外れのスイカを詠んでやろうくらいの「見つけ」をしていかないと、秀作にはなれないらしいです。

コピーライターがコピーを考える時とそっくり。 連想ゲームして、離れられるとこまで行って、また帰ってきたりして。どの距離感で語るのが、人の心に届くか。 どれくらい離れるとありきたりな表現にならないか。 ホント、知れば知るほど川柳家とコピーライターは似ています。

この作家の作品で僕が一番好きな作品がこれです。
お題は『孤独』。

“もうひとり 夜汽車の窓に いる孤独”

旅先の最終列車に乗り込んで、知らない人だらけの中、これからしばらく汽車に揺られていかなければならない孤独と不安みたいなものをすごく印象深く描いていると思いませんか?「見つけ」が夜汽車って、半端ない距離感。


白状します。この川柳家とはわが父岡本公夫のことでした。千葉県市川市の「市民芸術文化賞」を受賞しています。前述したとおり昨年他界しました。親馬鹿ならぬ子馬鹿御免、ご容赦を。